MTBなど昔の話①
大学時代に自転車部に入ることになりました。
体育会バリバリではなく、ちょっとゆるい感じの任意団体というカテゴリーのクラブでしたが、本気の人が多かったです。それなりにですが。。。
縁あってそこでMTBと出会いました。
MTBが好きになるのにそんなに時間はいりませんでした。まずは山が好きで箕面やら六甲は走り回ってました。新しいトレイル、道を求めて探検の毎日でした。大学生なのに小学生のような生活をしてましたね。朝起きて、山に入って、大学行って、部室行って、また仲間を探して山へ行く。
山から帰れば仲間、後輩と食い放題に行って飯っくて一緒に銭湯まで行って帰ってクタクタになって寝るという夢のような1日をたくさん過ごした覚えがあります。
結果20歳時にヘルニア(第四腰椎と第五腰椎の間)になり、21歳で右足のPCL(後十字靭帯)の完全断裂を経験することになりました。
22歳になる頃にはプロとしてサポートを受ける機会にあたり、私はTeam MX(モトクロスインターナショナル)のダウンヒル競技の選手として活動を開始することになりました。
さあ大変、日本のエリートクラスという最上級のカテゴリーでプロとして戦うには実力不足。
それを補うために考え付いたのがフィジカルトレーニングでした。
まずはパーソナルトレーナー探しからスタートしました。
大阪駅のヒルトンホテルの中にエグザスというコナミスポーツの前身のジムがあり、そこに通うことに。私のパーソナルトレーナーとの出会いはそこからでした。
ところが怪我をもともとしていて、リハビリの経験のある私は。
???
こんなトレーニングしていてだいじょうぶなんか?
いやいや、これ方が良いんちゃうか?
などと素人なりに??マークを連発。
結果、自分の先輩にロードレーサーのウェイトトレーニングやロードレーサーの乗り方をおそわることに。
ということで、20歳から26歳までお世話になった自転車屋さん、プロショップがこちら
アクオードの高山店長。
昔はめちゃめちゃガラ悪くて、怒りっぽく、怒られて気絶するくらい働いていました。
まあ、本当はスタッフのことをちゃんと考えてくださるめっちゃ良い人何ですが、その頃は本当にそんなことに気づける余裕がないくらい日々必死でした。
マウンテンバイクはその頃日本で大ブームでした。
アメ村のアパレルの兄ちゃん達から、30代40代の良い大人までこぞってダウンヒルという文化やマウンテンバイクという文化に魅了された時代で100万円くらいのマウンテンバイクが月に何台も売れた時代でした。
そんなブームに乗って、ソニー企業が日本でのワールドカップを誘致し、新潟の新井マウンテン&スノーパークで3回に渡るワールドカップが開催された頃もこの頃です。(98、99、01)
ワールドカップは世界の最高峰を決定する大会なだけに、今まで自分が感じた全日本選手権や日本シリーズ戦、草レースなんて比べられないくらいの豪華さと緊張感が詰まったレース会場でした。
私も僭越ながら二回開催出場枠で出場したものの枠を無駄にする予選落ちでした。(だからその時はなんちゃってワールドカッパーです)
当時、日本には勝てるレーサーが居ませんでした。(今もだと思われますが...)
でもこのことが後の自分のトレーナー人生の中で負けたくない思いと、どうにかして日本人を表彰台へ、とか自分たちがお返しできることは?とか考えさせて貰えるきっかけになっているのは間違い無いです。
その後、MAZDAが開催したマウンテンクロスという競技で私は上腕骨の大結節剥離骨折という怪我をしてしまって、競技人生と自転車屋人生に幕を下ろしました。
なんせ、骨がくっ付くのに2ヶ月、肩甲骨の上方回旋は戻ったのが数年後という怪我だったので。
話が長くなったので今日はこの辺で。まだまだ、出てくるのですが食事をしないと。
お付き合い頂きありがとうございました!
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